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ゼロ戦の搬送法

1 :名無しさん:2000/06/11(日) 14:11
信じ難い話を聞いたのですが。
零戦などの戦闘機や爆撃機を工場で作り、それを軍部に引き渡すのに工場から
軍の飛行場まですべて牛に引かせた大八車で運んでいたというのですが、本当でしょうか?
愛知県・岐阜県あたりにはその為の馬子や牛飼いが多数いて、親方たちはとてつもない莫大な
利益を得たとも聞いています。
何日もかけて牛に引かせて飛行場まで運ぶ隊列は想像するだけでも異様な光景だと思いますが、
・なぜ工場に飛行場を隣接させてすぐに飛んでいかせなかったか?
・もし搬送するならなぜトラックや鉄道を使わなかったか?
・牛や馬に飛行機を引っ張るほどの力があったのか?
などの疑問が出てきました。そしてこんな時代遅れの事をやっていたんじゃ、アメリカの現代
文明の前に破れ去って当然と思いましたが、真相は如何でしょうか?

2 :名無しさん:2000/06/11(日) 14:26
竹槍で本土決戦しようとしてた国ですから
でんでん不思議でもなんでもありません。

3 :名無しさん:2000/06/11(日) 14:27
間違いありません。三菱名工にはその当時の記録が
残っています。
以前、そのルートをバイクで辿った事もありますが
当時の道路環境からすると車両での搬送は機体を傷める
恐れがあり、機体をバラバラにして牛車で搬送しました。
また、三菱名工に隣接して滑走路を設ける事は、地理的に
無理があった事、最高機密の戦闘機の開発が多くの人の
目に触れてしまう等の理由により問題外でした。
搬送の際は、警官を配備し戒厳令に近い物があった、との話
も聞きました。また、開戦前はルート上にイギリス(?)の外交官
のオフィスがあり、かなり警戒したそうです。

丁度、鶴舞公園の前をのろのろと進んでいたのですね。現在の
車の混雑振りからはとても想像できません。

そのルートを辿るためだけに東京から名古屋まで行った私は
超暇人。

4 :名無しさん:2000/06/11(日) 14:37
しかしそんな搬送を改めようとしなかったのでしょうか?
どんな風に運んでいたのか写真など残っていませんかね。

5 :名無しさん:2000/06/11(日) 14:55
お聞きになった話は、真実です。三菱飛行機の名古屋製作所などは、
海岸沿いにあったのだから飛行場を持っていてもよさそうせすが。
開戦時、隣接飛行場を持つ工場は皆無。後に中島飛行機大田製作所と
川西航空機姫路製作所は飛行場を造成したようですが、三菱と愛知は
最後まで牛車のお世話になったようです。
ちなみに零戦一機に対し牛車3台、一式陸攻一機に13台必要だった様です。
零戦なんか発動機はずせば軽いですからね。ロシアで復元機を製作している
報道で、工場のロシア人が片手で垂直尾翼持っていましたから・・・。
牛車を使用したの振動の問題で、使えなかったという事です。
今ほど大きいトラックやエアサスなんて無い時代、しかも砂利道ばかり。
日本全国、津々浦々、舗装された広い道なんて昭和40年以降のことですから。
馬もね、今のサラブレットみたいに格好良いのじゃなくて、農耕馬ですから。
馬力はあります。昭和19年の比島戦でも、15cm榴弾砲牽引してます。
想像つかないだろうな。

6 :自営業:2000/06/11(日) 15:41
燃料だってなかったんだよ。
東京周辺では松の木のネッコを掘り出して、松根油を蒸留して取り出して
いました。代用ガソリンです。
戦後は松根油の蒸留釜がイッパイあったという話を聞きました。
トン当たり数CCしか取れなかった、ようです。
戦争継続は無理だよね。

7 :名無しさん:2000/06/11(日) 16:42
吉村昭の「零式戦闘機」に牛車の事が書いてあったはず。
20年以上前に読んだ記憶があります。

あ、6の自営業さんって、ひょっとして別のスレッド立ててる
あの○○源○先生ですか? わ〜い!


8 :osm:2000/06/11(日) 17:02
>自営業さん

勤労奉仕でせっせと掘った松根油も終戦時までに340キロリットルほどしか
出来なかったそうですね。
しかも、残っていた松根油を米軍がジープで試しに使ってみたら数日でエンジン内部が
激しく腐食してしまったとか・・・・



9 :名無しさん:2000/06/11(日) 17:31
木炭自動車はなかなか秀逸な発明だと思いました。
現代のキャブレター式ガソリン自動車も改造すれば
木炭缶付きで走りますか?

10 ::2000/06/11(日) 20:39
>6@`7@`8@`9
私の親父は、昭和19年だか20年に入隊した乙飛予科練なのですが、
土浦航空隊や奈良航空隊で松の根っこ掘りしていたと、そう言えば言ってました。
当時は高等小学校の生徒(今で言う中学生、旧制の中学生じゃないよ)で、
学校の先生に判子持って来いと言われて、持っていったら志願の願書っだったいう
今では考えられない話です。いわゆる、海軍特別年少兵というシステムなんですが、
ジュネーブ条約に引っかかるので、公式には15歳以下は徴兵しない事になっている
のです。親父もお袋も木炭バスの話になると、坂道で降ろされてバスのお尻を坂の
上まで押したという思い出話になります。

11 :負けるわけだね〜:2000/06/11(日) 21:11
絶対勝てないわな・・・。
こんなんじゃ

12 :ペンネームC:2000/06/11(日) 21:15
>9
ハーレーだか何だかのサイドカーに
カマをつけて木炭車にした人が
いるそうです。
だから可能かと。

13 :あのー:2000/06/12(月) 01:54
たんに輸送手段としてトラックより牛車の方がメジャーだったとか?

14 :名無しさん:2000/06/12(月) 03:36
F15やスパローミサイルを牛車で搬送している姿も面白いね。

15 :名無しさん:2000/06/12(月) 15:03
この話しは「零戦」に限って言えば試作機時代に本当にあったエピソードです。
ただ関係者が頭を捻って考え出した妙案ですので笑うのは可哀相です。
(試作機だけかと思っていたら量産が始まってからも同工場では続けていたの
 ですね)
それで「零戦」以外もそうかと言うと、これは間違いです。
工場によっては隣接して滑走路をもったところもありましたから、全部が全部
牛車で運んだわけではないです。

ただ牛車に代表されるように、日本の生産体制がアメリカに比べると酷く効率の
悪い面があったのは事実ですけど。


16 :ドナドナ♪:2000/06/12(月) 16:15
あーる晴れたー、昼下がり、市場へつづく道、
小牛が荷馬車に、つまーれてーゆくよー。

・・・ごめん、書き始めて気がついた。荷馬車だった・・・。

17 :名無し:2000/06/12(月) 16:30
>16
全然おもしろくない
なんか不愉快だ。
もう書きこまぬように。


18 :名無しさん:2000/06/12(月) 16:36
それは陸軍の話では?
海軍の飛行機は、船で伊勢湾渡って
鈴鹿の海軍飛行場に輸送してたって
聞いたことあるぞ。

19 :名無しさん:2000/06/12(月) 19:34
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/nkj-1.html
ココなんかどうっすか。


20 :>17:2000/06/12(月) 19:39
狭量なお人!

21 :sage:2000/06/13(火) 23:23
>20

わざわざあげんな。おまえのほうが狭量だ

22 :名無しさん:2000/06/14(水) 06:02
ドナドナはいつ聞いても笑えるよナ〜。
>16
sageの使い方くらい知っとけ。
>20

23 :名無しさん:2000/06/14(水) 10:43
ゥ・

24 :平安朝のお公家様みたいに:2000/06/20(火) 11:54
十二試艦戦が初飛行した各務原飛行場の場合、牛車で運んでいました。

理由は、工場の隣に飛行場が(滑走路すら)無い。馬車では速過ぎて荷物(飛行機)が
傷む。トラックは燃料が勿体ない。などです。

雨が降ると泥濘となって、それはそれは苦労したそうです。

食料が配給制になって久しい敗色濃厚な時期、「たかだか牛ごときに与える食料を
備蓄するのはけしからん」という理屈で航空機メーカーは裁判にかけられてしまい
ました。確か、物資統制令(でしたっけ?)違反だったと思います。

メーカーとしては当然ながら軍に助けを求めますが、「運搬中の事は工場側の責任」
という理屈で無視され、それでいて牛不足で納品が遅れると「国家危急の折り、遅
れるとは気合いが足りん」と、メーカーにとっては全く理不尽な状況でした。


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