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戦時中の話が聞きたいっス。

1 :名無しさん:2000/06/09(金) 21:58
じーちゃん、ばーちゃんから聞いた話とかで面白いのがあれば是非。


2 :名無しさん:2000/06/09(金) 22:10
戦時中の話ではないですがシベリア抑留生活の話ならありますね。
隣の人がばたばたと倒れていったとか、まあいろいろ。

3 :名無しさん:2000/06/09(金) 22:11
空襲にあった話とかありますが面白いとは思えません。
何か勘違いされてるのでは??

4 :名無しさん:2000/06/09(金) 22:20
親父(昭和ひとケタ)は山にセミを採りに行ったとき米軍機の機銃掃射に
あったそうな。


5 :名無しよん:2000/06/09(金) 23:13
 たとえば、激しい飢餓のためガダルカナルのオーストラリア兵の死体を・・・
まぁ、6世紀まで入れ墨人喰い首刈族だったから仕方がないか。

 そこまで追い込んだのは彼らだし。じゃなければ、日本兵の掃討戦に
火炎放射器なんて使わないよ。組織立った一般市民である非戦闘員への
無差別殺戮及び都市壊滅はゲルマン人の専売特許だし。戦争美化しすぎ。
かといって、戦争を否定してはならないし。

6 :名無しさん:2000/06/09(金) 23:33
じーちゃんが空襲に遭い怪我を負い、傷口に蛆がわいたそうな。ばーちゃんはそれを箸でつまんで取り除いたそうな。
以上、母が涙ながらに語ってくれた事があります。

7 :名無しさん:2000/06/09(金) 23:47
 70才から80才ぐらいの年寄りの話を聞くなら、特別養護老人ホーム
か、デイサービスに行ってみ。
 年寄りのなかには、かならず、戦争経験者がいるから・・・
俺、デイサービスセンターの職員だったけど、
山城の衛生兵、一式陸攻の機銃手、海兵出身の奴、
航海士で、山城、多摩、と乗り継いで最後にフィリピンで泳いだ奴
近衛三連隊にいた奴・・・などなど、いろんなの知ってるよ。
ただねえ〜。俺らが知りたい戦線や最前線で戦った奴は、
一式陸攻の機銃手ぐらいだな。
聞いたこともないような島の通信兵の与太話についていけるなら
老人ホームのボランティアも面白いと思うけどね。
 最後に兵隊経験者の見分け方・・・
飯を食うのが異常に早い奴は兵隊だ。

まあ、そんなかで今でも軍歴を誇りに思っているのは
近衛兵たちだよ。


8 :名無しさん:2000/06/09(金) 23:59
うちのじいさん(大正生まれ)は、ビルマのインパール作戦に砲兵隊の小隊長(おそらく階級は少尉)として参加していたそうです。
 1式戦「隼」と英軍機との格闘戦で少数の隼が2倍の数の英軍機に対して無傷で勝利した所を目撃した話とか、
敵(スパイ)の目をごまかすため、リアカーにひもで結んだ空き缶をいくつもくっつけ、いかにも戦車が走ってるかのような音を立てながら夜間行軍したり、
ある時は大佐の階級章をつけていかにも大部隊がそこにいるかのように見せかけたというのを聞いたことがあります。

悲惨な話はあんまししないのですが、別の部隊にいた兄貴が英軍の戦車に轢かれて戦死したってのがありましたね。
そのほかにもグルカ兵とのエピソードや、捕虜収容所での笑い話とか挙げればホントきりがないです。

じいさん曰く「勝ってる戦争ほど面白いものはないが、負け戦ほど悲惨なものはない」とのことです。

9 :うちのじいさんは伍長:2000/06/10(土) 00:10
中国大陸にいたときは夜間一服しようと
タバコに火をつけた途端、タバコの先に
弾が飛んできたそうな・・・

じいさん曰く「陸士の方が東大より賢いさかいに
政治家の言うことなんか軍人が聞くはずないやろうが」

10 :沖縄人。親は宮古島出身:2000/06/10(土) 00:20
俺のばあちゃん、戦時中は台湾に疎開して高砂族に世話になったそうだ。
結構いい人たちだったってさ。
あと、母の姉ちゃんはちょうど戦時中に産まれて壕で過ごした
もんだから1,2歳で亡くなったそうだ。
沖縄戦はひどいわ。ホント黙祷。

11 :名無しさん:2000/06/10(土) 00:24
うちのじーちゃんは潜水艦に乗ってました。じーちゃん曰く、艦長が”偉い人”
だったので生き残れたと言ってました。
で、どーえらいかと言うと”とにかく逃げる”と言うことでした。卑怯者と言わ
れようがなんと言われようが、命あっての物種ということで、戦闘を避けて逃げ
まくっていたらしいです。
戦争末期には、魚雷も降ろして輸送船をやっていたので戦いようもなかったと言っ
てましたが、戦争たけなわの頃から、逃げる、潜る、が方針だったとのことです。

このとき、じーさんの船が勇壮果敢に突撃して撃沈されていれば私は存在しない
ことなるので、戦果を上げていればかっこいいのに、と思う一方で結構複雑な心
境になります。


12 :ごっぐ:2000/06/10(土) 01:24
戦艦大和の沖縄特攻に駆逐艦でついていって、結局夜中に佐世保港に
帰ってきたという人が親戚に居ます。艦名失念。だれかおしえて。

13 :名無しさん:2000/06/10(土) 01:28
うちのじーさんは大陸だったけどあんまり話しはしなかったなあ。
子供の頃一緒に風呂はいって太股に穴があった(銃創)のをおぼえている。
その負傷で一時帰っていたときに出来たのがうちの母親、
戦時中の話より戦後の引上げの時の話のほうが印象に残っている。
でも、予科練出身のおじさんはよく海軍を懐かしがっていたのは実戦経験
のなさ故か?(当初飛行兵だったが、回天の訓練中に終戦)
でも、軍艦や戦記に興味を持ったのはこのおじさんの影響大

14 :名無しさん:2000/06/10(土) 03:50
 うちのじーちゃんは陸軍大卒。将校だった。
 中国で狙撃されて戦死。馬に乗っていて、それでいて一発。
しかも眉間だったらしい。
 話ちょっと違うけれど、俺はその中国人狙撃兵を心から尊敬する。
自分の国のために戦って、見事戦果を挙げたんだから。
 あ、むろんじーちゃんも尊敬するよ。

 で、家族は満州から日本に帰国。
 お陰で親は残留孤児にならんですんだのかも。だから俺は今日も日本人。

15 :名無しさん:2000/06/10(土) 07:13
一人は日本郵船の船員で軍属。比島沖で乗船が撃沈され戦死。
もう一人は海軍予備学生たる海軍少尉で整備分隊士。
45年7月の米機動部隊の日本列島空襲で足に貫通銃創の負傷。

16 :マグロ男:2000/06/10(土) 08:19
>12
「雪風」じゃなかったけか?
結局、沖縄水上特攻作戦で生き残ったのは駆逐艦1隻だったと思うけど。
で、戦後その駆逐艦のみが連絡船として生き残ったはず。
その他の軍艦は解体されたり戦艦長門のようにアメ公の水爆実験に
使われたりした。

17 :名無しさん:2000/06/10(土) 08:26
>12初霜、冬月、涼月、雪風の4隻

18 :名無しさん:2000/06/10(土) 09:09
うちのじいさんは、ボルネオの戦場で泥酔して命が助かったらしい。
シラフの人は突撃して戦死したって言ってた。
いまでも酒を飲んで戦争の話をよくする。

19 :>16:2000/06/10(土) 09:20
雪風は戦後台湾に賠償の一環として引き渡したと思います。
その後台風か何かで遭難したんじゃなかったっけ。

20 :民間人1:2000/06/10(土) 11:02
雪風は台湾海軍の旗艦になってたですね。たしか
円満除籍か、何かトラブルがあってか、どちらにせよ遭難で行方不明
とかはないはずです。
日本のどっかの機関が除籍後雪風保存するから還してとか言ってたよ
な気もしますが断られて、錨だけが日本に帰ってきたと思います


21 :名無しさん:2000/06/10(土) 11:10
病院勤めだが戦争初期に南方に行って連絡線が切断されたために
実戦に巻き込まれなかった軍人はいまだに元気かつわがままで
周りが迷惑している。本土に残って苦労した人はほとんど死亡。
憲兵、開発者などは寝たきりかつ管つきだが当時の秘密については
口をつぐんだまま。

22 :追伸:2000/06/10(土) 11:16
この世の地獄がより加速されるらしい、現代人より寿命は短いし
当然楽しみもすくない。

23 :名無しさん:2000/06/10(土) 12:05
駆逐艦雪風

陽炎型駆逐艦8番艦
昭和十年一月、佐世保海軍工廠で竣工
カイセンと同時にフィリピン侵攻作戦に参加、以後駆逐艦の墓場とまで言われたソロモン海の戦いに生き抜き、
海軍最後の決戦となってレイテ沖海戦でも無傷で帰還した。
昭和二十年四月沖縄特攻で僅かに駆逐艦四隻が帰還した無傷で帰還した艦は雪風のみ。

引き渡し先は中華民国、同国で丹陽と改名、以後十数年同国の旗艦として活躍。
昭和四十四年廃艦として係留中であった雪風は颱風により沈没、まもなく解体された。

錨と舵輪は海上自衛隊第一術科科学校に保存される。

24 :名無しさん:2000/06/10(土) 17:42
どうして戦争が面白いとか考えるやつが居るんだ?
そんなに戦いたいんだったら外人部隊にでもなってこい!!

25 :名無しさん:2000/06/10(土) 17:49
気楽な話だけ知りたいなら、よもやまシリーズ読むべし・・・殴られたっつう話
ばかりだが。
かっこいい気分だけに浸りたいなら宇宙戦艦ヤマトでがまんしなちゃい。
あれは日本人の戦争記憶からべたな部分を除いて作ってあると思う。

26 :名無しさん:2000/06/10(土) 18:06
ところで森首相また銃後のとか言ってるけど……。

27 :名無しさん:2000/06/10(土) 18:15
軍隊生活の記述だと山本七平「私の中の日本軍」が秀逸です

28 :名無しさん:2000/06/10(土) 18:31
うちのじーさんは第5師団(広島)で日本軍陸軍ではわずかだった
機械化(自動車)師団、装備優良だったそうな。
中国戦線でも100戦100勝だったと大マジで言っていた。

29 :うろぼろす:2000/06/10(土) 19:23
 小学校6年の時に沖縄戦を体験した怖い体育の先生がよく戦争時の話
をしていた。そのなかでも一番印象にのこっているのが、「日本兵の銃
は、カチャッ、バン!カチャッ、バン!(と単発でしか撃てない)なの
に、アメリカーの銃は、ダダダダダダアーだから、勝てるわけがねえ」
とよくぼやいていたことですねえ。
 それにしても、民俗の聞き取りなんかをしていて気づいたことだが、
確かに沖縄戦では日本兵の残虐行為が少なくないのだが、その一方で、
民家から勝手に物を取った兵隊を叱った上官の話や防空壕で自殺しよう
とした女性を「生きるんだ!」と日本兵が言って励ました話なんかがぼ
ちぼちある。
 なにも、自由主義史観みたいなことをいうつもりはないけど、こうい
った話にも配慮しないと見方としてバランスが良くないなあと最近思う。



30 :>29:2000/06/10(土) 19:24
太田実少将の最後の電信は教科書に掲載すべきだとおもふ

31 :名無しさん:2000/06/10(土) 20:17
>30
どんな電信なのですか?

32 :海の人:2000/06/10(土) 21:56
>29
 う〜ん、バランスと言われてしまうと、ちょっと違うかな、と。
 数限りなくある「敵よりも恐ろしい味方」としての帝国陸軍の逸話のなかに
ごくごくわずかに混ざった美談を誇張してしまうと、それはそれでバランスの
悪い話ではないかなぁ、と思います。
 太田実少将の逸話も含めて、前者は帝国陸海軍の普遍的な性質として、後者は
そんななかでもこういう人がいたよ、という個人の資質の問題ではないかと思い
ますよ。
 あの関東大震災後の「不逞鮮人」騒動の時にも、敢然と在日朝鮮・韓国人を
かばった人はいたわけですから。



33 :>32:2000/06/10(土) 22:35
あれでしょどっかの警察署の署長のお話。

暴徒に向かって井戸の水を持ってこい、儂が飲んでやる。
みたいな事言った人。
なかなか勇気いるよね、こういうのって。

34 :名無しさん:2000/06/10(土) 23:24
戦争中の話ではないですが、関東大震災での
「甘粕憲兵大尉による大杉栄一家の虐殺」というのはどのへんまで
甘粕個人の犯罪なのでしょうか?
彼の満州での活躍をみると、左翼系文化人の活用や終戦時の残留日本人家族の
帰国列車の手配等、ある種の贖罪意識的なものがあったからなのでしょうか?

35 :>31:2000/06/11(日) 00:12
(沖縄)県民かく戦へり、
(後世において)格別の御高配を賜らんことを願う
というような意味だったと思う。

後世、県民は「格別の御高配」で米軍基地を賜った。

36 :名無しさん:2000/06/11(日) 01:00
>35
ひどい話だね・・・・・

37 :名無しさん:2000/06/11(日) 01:18
海軍司令部壕
http://wwwsam.hi-ho.ne.jp/maehasi/ryukyu/war/tomigusuku.html

38 :名無しさん:2000/06/11(日) 01:26
このスレッドの92にあるよ

http://teri.2ch.net/2ch/test/read.cgi?bbs=army&key=959380999

39 :政治思想板不名誉在日:2000/06/11(日) 02:26
>35

 おひおひ、格別のご高配とは沖縄開発庁のことだよ。
よその県で受けている地方交付税なんぞ比較の段ではない。

 ついでにいうと、米軍基地は返還前からあったのだから賜る
代物ではありえない。

御左さんは逆立ちが好きだね。

40 :名無しさん:2000/06/11(日) 04:28
戦争体験者の話ならここにありました。
http://www.alles.or.jp/~esplit/ww2.htm


41 :名無しさん:2000/06/11(日) 06:10
沖縄が日本海にあったら米軍基地も存在しなかっただろう。

42 :うろぼろす:2000/06/11(日) 19:52
>32
 海の人さん
 組織の性質と個人の資質、それぞれを分けて考えることも確かに必要
ですね。
 貴重なコメントありがとうございました。 

43 :名無しさん:2000/06/12(月) 01:48
>39
沖縄開発庁は地域格差是正のためのモンじゃろが
北海道開発庁は御高配でも何でもないぞ

御高配ってのはアレだよ、
弐千円札の図柄に朱礼門を採用したことだよ
ショボ過ぎ(泣)

44 :名無しさん:2000/06/12(月) 02:03
そういや小渕が逝ったので忘れていたが、弐千円札ほんとにでるのか?

45 :無名兵士:2000/06/12(月) 08:00
 うちの元輜重兵の爺さんの話。

 満州に行く前、実家に帰った。爺さんは輜重連隊のラッパ手
だったので、軍刀を下げて南部拳銃を装備していた(家に持って
いったかどうかは不明)。
 で、近所のガキが、その姿を見て
「憲兵来た、憲兵来た!」
と騒いだ、と言うエピソード。

46 :名無しさん:2000/06/12(月) 10:47
叔母は若い頃、停泊中の潜水艦に載せて頂いて
糧食を食わせてもらっていたそうだ。
もちろん、そこの若い水兵や、将校の「魚雷」
を食わされてたろうが…。

47 :名無しさん:2000/06/12(月) 11:41
俺のじーちゃんは、金鵄勲章とかいうのをもらったらしい。
これって凄い?

48 :>47:2000/06/12(月) 11:43
凄いです。おじいさんを尊敬してください。

49 :名無しさん:2000/06/12(月) 12:27
坂井三郎氏(撃墜王)の本もオススメ

50 :名無しさん:2000/06/12(月) 13:14
>32
敵よりも怖い帝国陸軍?
それはないだろう。

怖いのは敵だよ。
そんなことをいうのは、サヨク運動家や、後方で不満ばかり抱いた
人々。
ないし、観念論。



51 :名無しさん:2000/06/12(月) 13:36
満州にソ連が攻め込んできた時、向こうの戦車の撃った弾は、日本の
戦車を2台貫通し、3台目を破壊したそうな。
「アレじゃ勝てんわ〜」とは友人のおじいさんの話。しかし、そう
笑って話せるようになるまでには何年かかったかと思うとね...。

うちのじーさんは昭和18年に満州で伝染病のため病死。(衛生兵
やってたらしい)けど、ソ連の満州侵攻を知らずにすんだから祖
父にとっては幸せだったのかもしれない、とも思います。

52 :名無しさん:2000/06/12(月) 13:47
Myじーさんの兄貴は陸軍兵で、ビルマで戦った。ミートキーナ
飛行場の争奪戦(相手は英軍か?)で爆撃時に破片を浴びて戦士。
戦友の話をひいばあちゃん(存命・99歳)が話してくれたが、
「1週間の食料」といって一人一人に渡されたのが、一握りの
塩のみ。そんな食料事情で物資豊富な英軍と戦ってたかと思うと、
白骨街道に遺骨収集にいきたくなる。

53 :名無しさん:2000/06/12(月) 14:13
私の母の話。親類に陸軍でたいそう出世した人がいて、太平洋戦争の
時代に元帥までなり陸軍大臣も務めたと。まだ小さかった母は、この
「ハタのおじさん」とみんな呼んでいた人に大層可愛がられた記憶が
あるそうです。ところが、終戦で東京裁判にかけられ、A級戦犯で
禁固刑の判決を受けて刑務所暮らし。でも、何年かしたら出てきた
そうです。その後は悠々自適の余生を送ったということです。
メデタシメデタシ。

54 :名無しさん:2000/06/12(月) 14:53
うちのじぃちゃんは 通信師かなんかで 終戦を満州でむかえました
なんでも、2,3日前には終戦するのがわかっていたそうです
軟禁虐殺も見たと言ってました
3人を背あわせてロープでしばり、隙間に手榴弾をいれて爆殺するとこだって


55 :名無しさん:2000/06/12(月) 15:03
叔父は徴兵検査の日に醤油をがぶ飲みして
胃腸炎で入院。見事終戦まで内地で無事生き延びた。
夫を戦地でなくした、後家とやりまくって
美味しい思いをしたと自慢(?)していたそうだ。

56 :名無しさん:2000/06/12(月) 16:58
うちの祖父は水偵乗りだったらしい。
南方の泊地を点々とし、フィリピンで戦死・・・ということに一旦なったらしいけど
どういうわけか内地に帰り着き追浜で編成された銀河の部隊に入った。
その後、鹿屋に移動し白昼強行偵察や特攻機の先導なんかをやったらしい。
子供の頃、緩降下でグラマンを引き離す話を何百回も聞かされた。
終戦後、士官が逃げてしまったので特務士官や兵が残って残務整理をやったとか。

57 :オイラの大叔父さん(故人)は:2000/06/12(月) 17:06
インパール作戦に参加して所属部隊はほぼ全滅して幸運にも
生き残った数十人に辛うじてはいったらしい。
詳しい話はきいてないっす。

58 :名無しさん:2000/06/12(月) 17:24
>53
もしかして畑俊六氏のことですか?

59 :53:2000/06/12(月) 19:22
>58
はい、その通りです。ちなみに、私の一族は新潟県の出で、地元では
結構名家だったそうです(今は没落して見る影もありません)。

60 :asd:2000/06/12(月) 19:28
僕のじいさんは立命館大の20年卒なのですが、
進学しても専ら戦闘機のエンジンをつくるため中島の工場に
行ってたそうです。
また、終戦後も特別措置で本来4年で修了するはずが、3年で
修了になったそうです。


61 :1です。:2000/06/12(月) 21:08
みなさん、カキコありがとうございます。B29が○○に墜ちたとかそういう話は
ありませんでしょうか?


62 :名無しさん:2000/06/12(月) 21:23
私の地元には、B-29ではなくB-29の落とし物がありまして。
ピカっと。

幸い家は山の陰にあったおかげで直接被害は受けず、私が
生まれた直後までそのまま残ってました。今はビルに
立て直してますが。

というわけで家は親族含めて一族無事だったのですが、まだ
小学生にもなってなかった母は進駐してきた米兵に「パパママ
ピカドン、ギヴミーチョコレート」と大嘘をついて甘味を
騙し取っていたそうです(^^;;



63 :名無しさん:2000/06/13(火) 05:15
B29かどうかはわかりませんが熊本県で米軍の爆撃機が落ちたとき
その近所の村の人たちがそこへ集まり生き残った搭乗員たちを
竹やりで突いて皆殺しにしたそうです。村人いわく「みろ、米兵は
ふんどしもつけとらん!」(当時パンツなどの下着はまだつけている人は
少なかったようです)     母談

64 :名無しさん:2000/06/13(火) 06:10
祖父と父親が沖縄戦の生き残りっつーか地元。
沖縄戦が近づいた折、祖父の「沖縄での戦いはすぐに終わる」とのご託宣&
「だからお前は、商売再開(そば屋さんだったらしい)に備えて薪をかき集
めておけ」との命令を受けて、父親は徹夜で薪をかき集め(本当はご法度だ
ったとか。燃料の不法貯蔵になったのかな?)、小屋に貯め置いていたとこ
ろ、「十・十空襲」の際に、日本軍の物資貯蔵所と間違われたか、ものの見
事、こっぱみぢんにぶっ飛ばされたのだそうな。

65 :名無しさん:2000/06/13(火) 13:38
名古屋市在住の親戚の話。16歳で三菱重工名古屋航空機製作所に
徴工として行って、陸軍の試作機の製作をしとったそうな。そこで
三菱の設計技師(結構有名な人)、平野とかいったっけ?と懇意になり、
戦後も交流は続いたそうな。作ってた試作機は、双発のキ112とか116
とかいってた。だれか詳しい情報をお願いでござる。

66 :65です:2000/06/13(火) 13:39
うっ、平野じゃなくて牧野かもしんない。どっちやっけ?
分かる人、情報ください。

67 :>61:2000/06/13(火) 20:20
隣の町に墜落したB29を親父が見に行きました。
墜落現場に行く途中、戦闘機の機銃掃射を受けたりして命がけだったらしいです。
その時、B29の燃料タンクの防弾ゴムを拾ってきたそうです。


68 :おれの近所に:2000/06/18(日) 13:47
ラストロボフ事件のMGB情報提供者がいる。

なんてことないジジイ。おととし死んだ。5年前のNHK特集で、
情報提供者の名簿が(番地のみモザイクがかかってたが)出て、
特定できた。

ま、戦後のカテゴリー話だが。

69 :名無しさん:2000/06/18(日) 16:16
63さんの話で思い出しました、母親の話。
東京大空襲で運良く生き残り、茨城の知り合いに身を寄せていた頃のこと。
高射砲にやられて不時着したB29の搭乗員たちを、村の人たちが
木に縛り付けて袋叩きにしたそうです。
その時、搭乗員の一人がお菓子(たぶんチョコレートかなんか)を
取り出し、必死こいて命乞いしたそうです。しかし、見たこともな
い食い物に、村の人たちは「毒が入っているに違いない」と言って
袋叩き再開。ボッコボコにしていると、そのうち、警官が駆け付け
止めに入り搭乗員たちは命拾いしたとのこと。

70 :名無しさん:2000/06/19(月) 23:11
うーん、殆どが「うちのじいちゃんに聞いた話では〜」だな。
「わしの体験じゃがの〜」って書き込みはないかな。
なんとかインターネットやってる爺ちゃん居ても2チャンネルに
来るまいなー。いや、実は来てモナーをコピペしてたりして(笑)

スレッド主旨から外れるようで恐縮だが、もう、日露戦争に従軍
しましたって人は生きてないよね。シベリア出兵経験者も全員鬼籍
なのか。話を聞きたいなー。

71 :名無しさん:2000/06/20(火) 08:26
うちのお母ちゃんが言うには
新潟空襲の際、真っ赤に燃える空にくりかえし急降下爆撃(!)
するB29のシルエットが見えた。
母ちゃんの実家は新潟から40kmは離れている。
・・・まあ、ウソだろう。

72 :名無しさん:2000/06/20(火) 09:40
新潟空襲の話・・・
B29は急降下爆撃なんて出来ないんじゃあ・・・
たぶんウソ。とは言わないまでも、
機種を見間違えてるかも。

73 :名無しさん:2000/06/20(火) 10:27
知り合いのじいさんが、基地で飛行機の整備をやっていたんだが
そのおじいさんが、昔話をすると飛行機すべて「グラマン」って
いってる。


74 :名無しさん:2000/06/20(火) 10:45
民間人の視認なんてそんなもんだ

75 :祖父の従兄の話:2000/06/20(火) 11:06
フィリピン戦線(としか聞いてない)で、進撃中の米兵に対し、
お決まりの突撃を仕掛ける直前、3人程隣で匍匐前進中の兵の目前に
毒蛇でおなじみのコブラが鎌首持ち上げたそうです。
その兵士は悲鳴をあげて立ち上がり、米兵には隠れていた日本兵の
所在がバレ、機銃掃射を受けて部隊は全滅!
祖父の従兄は、何故自分だけ助かったのか、最後まで話してくれま
せんでした。
察するところ、当時タブーだった捕虜になったのかな?


76 :名無しさん:2000/06/20(火) 11:28
>73
戦闘機は零戦、爆撃機はB29、軍艦は大和しかないんでしょうか。
特に日本人にとって戦争と言ったらB29なのかも。

77 :名無しさん:2000/06/20(火) 11:46
>75
ベトナム戦の従軍記(プラトーンリーダーだっけかな?)に似た様
な話が乗っていました。
 森の中からくしゃみの音が連発し、べトコンのアンブッシュを察
 して制圧。
となってますから、激しい緊張の中でもくしゃみだの、驚いて悲鳴
だのはあるもんなのですね。


78 :77:2000/06/20(火) 11:59
義父の話をひとつ。
# 中国戦線です。
敵軍と対峙する中、突撃準備の伝令が来る。
自軍の突撃ラッパが鳴るが、それを聞いた敵軍が一斉射撃を開始。
気勢をそがれてまったく動けず、頭上を弾丸がぴゅんぴゅん飛び交う。
隣りを見ると戦友がこちらを震えながら見てるのに気がつく。
一斉射撃が終わり、回りを見回すと上官の大半のみが戦死。生き残っ
た上官が退却を命令。特におとがめ無し。
「顔を持ち上げていれば絶対戦死していた。」との事。


79 :無名兵士:2000/06/21(水) 18:41
 うちの曾祖父さんは近衛兵だったぞ。

80 :雪男:2000/06/21(水) 19:49
祖母から聞いた話
母(昭和18年11月生まれ)が庭で遊んでいると、
戦闘機の機銃掃射により血達磨に。
「殺られた」と思ったら銃弾の圧力で鼻血を出しただけだったそうな。

戦後樺太から釧路に引っ越したが、
栄養状態が悪く乳が出ない為
叔母さん(母の妹)が船の中で餓えてしまった。
結局は死なずに済んだけど。
(このおばさんは日本人離れした色白の鮫肌と、
 顔つきを持っていたりする。)

母さんの一家は国境付近の村で庄屋のような事をしていたそうで、
納屋に大砲があったそうだ。
良く生き残れたものだと思う。
(兄弟の半分は死んだ(戦争との関係は不明)とはいえ)


81 :欲しがりませんカツまでは:2000/06/21(水) 20:03
数年前に他界したうちのじいさんは、分隊長(伍長)として、
1941〜1944年の間上海?とかに行ってた。
市街戦とかしたらしく、誰もいなくなった民家に押し入って
酒を飲んだりして面白かったって言ってた。
怪我一つ無く無事に終戦前に帰ってきた。もう戦争が終わるのを皆
わかってたらしく将校に馬を数頭おみやげにもらってきた。
そおいえば中国兵を殺したかどうかはいくら聞いても教えてくれなかったな、
俺が子供だったから言いにくかったのかな。
じいさんの弟は19歳の若さで比島で戦死し骨さえ無い。

その頃、ばあさんは静岡のかた田舎のじいさんの家で百姓兼米屋をしていた。
裸足のゲンみたいに都会から服とか持ってヤミ米買いにくる人が
いっぱいいたらしい。
こっちでは食べ物に困る事は無かったが、肉とかを食べると駐在に怒られるらしく、
たまに近所の人達と山に行って家畜の豚をしめてdカツやBBQしてたらしい。
のんきな話だよ。

82 :名無しさん:2000/06/21(水) 22:04
  うちの父親の実家が川崎の港の方なんだけど、
B29が自分の真正面から飛んできたら、(つまり、自分めがけてね)
やばいけど、そうじゃない場合は防空壕に入る必要もない・・・・
などと話していました。

  そんで、グラマンが飛んできたら、
道端に小さくなって動かなければ、
相手からは見えないので撃ってこないんだそうです。

  ついで・・・・
B29の防弾ガラスはいい香りがするので、
当時の子供には宝ものだったそうです。

  うちの父親、昭和9年生まれ・・・

83 :名無しさん:2000/06/21(水) 22:17
小生の大学時代のアパートの大家のジーさんが、ラバウル勤務で
よく話を聞かせてくれましたね

ある時、米軍の爆撃でトイレに直撃弾があり、猛烈な臭いが辺り
一面を漂ったときに、誰かが「米軍の毒ガス攻撃だ〜」と叫んだ
という話を聞きました


84 :名無しさん:2000/06/21(水) 23:07
私のおじいさんが死んだんで、整理してたら、庭のここに埋めた。って書かれていた地図を見つけた。
なんだろう?と思って掘ってみたら、南部銃、実弾100発ぐらいと木製ストック、
20mm機関銃らしい実弾5発、菊の紋章が入ったタバコの箱があった。
油紙で包まれた上にゴムシートみたいなものでぐるぐる巻きにされていた。
どうしょうかと思ったが、結局、部屋に飾ってる。


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